以前の職場に「こちらの話の途中で必ず喋り出す」という癖のある先輩がいた。
肯定であれ否定であれ、とにかく自分の中で「この話はこうなんだ」と思ったら喋らずにはいられない、そんな人だった。悪い人じゃなかったよ。基本的に優しいし、いろいろ奢ってくれたし。でも、その先輩と議論をするのは苦痛だった。
あるとき耐えかねて「話し、最後まで聞いてくれませんか?」って少しキレ気味に言った。
「ゴメン、よく言われるんだけど…気をつけるよ。」って言ってくれて、それからは完全にではないけど私と話すときは最後まで聞いてくれるようになった。私が職を辞したときは「淋しい」って言ってくれた。生意気な後輩ですみませんでした。
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先輩は極端な例だとしても、話しを最後までさせないで「いや」とか「でも」とか言って遮る人って結構いるよね。特に意見を異にする人と話しているとそういう対応を受ける場合が多い。
何でだろう?と思って、いろんな本やサイトを探したことがある。
曰く、日本語の文法上最後まで聞かなくても内容を把握できる説とか、曰く、最後まで聞くとそれが既定になる恐れを無意識に感じているという”言霊”的な解釈や、曰く、「皆まで言わせない」ことが美徳とされる風土にあるとする説とか、色々あってどれも一応は頷ける。
頷けるけどストンとは落ちなかったので、それらを参考に自分の場合を考えてみた。
私も結構やらかしている。自分の認識と違う”筋”に話しが流れそうになったときとか、相手が自分の意見とは正反対でかつ自分が完敗しそうなときとか、どうしても相手に要求をのませたいときとか。
思うに、話しの中で自分が焦っているときにやらかしている。心の余白がないとき、相手の話を聞く以前に自分の主張を”押しつけ”ようとする。そんな感じかな。
そう、私がやらかすときは「相手の話を聞いていない」。普通の会話でも。一つの話題で「自分の場合」しか話さず、相手の「自分の場合」には興味がなければ「そうなんだ。」で終わり。で、また「自分の場合」を話し出す。よくあるなぁ…。
あぁ…自己嫌悪…。今まで私の被害に遭った方、ごめんなさい。
で、そのことに最近気づいたので、人と話すときは先ず「聞くこと」から始めることを意識するようにし始めた。そしたらね、会話の中で「考える」時間が少し増えたよ。
今まで、相当な「聞き下手」だったんだなと改めて思う。
これから「聞き上手」になりたいと思うけれど、歳も歳だから急には無理。徐々に、ということで努力しますので被害者の皆さんお赦しください。
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「日本人は討論(ディベート)が下手だ」とよく言われる。それはきっと討論の場で「自分の理」を披露することに一生懸命で「相手の理」を覆す余力を持てないからじゃないかな。
そしてそれは相手の主張を充分に聞くことができていないから、相手の失言とまではいえない”ミス”を見逃してしまって、真っ当な突っ込みや反論の機会を失ってしまうからじゃないかな。
「聞くことができていない」原因は、私のようなケースを含め様々あろうし、本やサイトにあったような文法や美徳感なんかが影響しているのかもしれない。
もし「会話が弾まない」ことでお悩みの方がいらっしゃれば、取りあえず「聞くこと」から始めてみてはいかがだろう?
私はそこから始めようと思う。
国権の最高機関に集う皆様へ
討論や議論において、発言者の発言の間隙を縫って当事者以外が不規則に発言することを「野次」と
いいます。
昨今、会議や委員会において発言者の発言中にそれを遮るように多数で発声する場合が多くあります
が、それは単なる「罵声」です。「野次」ですらありません。「野次」は発言の趣旨を踏まえなければ
成立しません。そして「罵声」は、傍聴する者からすれば迷惑以外の何物でもありません。
先ずは相手の話を聞くことを切に希望します。それがいかに己が常識に反していようと、基本的な人
権を毀損せず公共の福祉に反しない限りにおいてそれを述べる機会を奪わないのが「言論の自由」とい
うものではないでしょうか。
御一考を願います。
makuriru 拝
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